U医師が信州の病院に勤め始めて1カ月ばかり経った頃、Mさんから電話があった。「秋田大学に電話して、そこに勤めてるって教えてもらったのよ」Mさんの声は相変わらず愛らしいソプラノだった。それから数日した土曜の夕方、MさんはU医師の住む町に来た。彼は閑散とした駅前に車を止めて、2両編成のディーゼルカーから降りてくる乗客を見つめていた。Mさんは最後に改札口を出て来た。鮮やかなブルーのコートを着ており、改札の駅員がふり向いて彼女の後ろ姿を追っていた。Mさんはそれだけ美しかった。車で30分ばかり走り、軽井沢のホテルで食事をした。Mさんは都立高校で物理を教えている、と話した。大学を卒業する年に父が大きな負債を抱えたまま病死したので、天文学どころではなくなったのだ、と。「なんでまた急におれのところになんか来たんだよ」ワインを少し飲んでからU医師は単刀直入に聞いてみた。「結婚しようかと思って。ただ、どうしてもあなたのことが胸のどこかにひっかかってるもんだから、一度おこうと思ったの」Mさんのワイングラスはすぐに空になった。いまさらなにを、と喉もとまで出かかった言葉をワインとともに飲み下し、U医師は笑顔を造っていた。